日曜日は金春円満井会の特別公演に行ってきました。
頭痛のためあまり寝ておらず不安でしたが、見ないわけには行きません。
「関寺小町 古式」
主人公は百歳の小野小町です。
静かな笛の音で始まった舞台の上には藁屋が置いてあります。
藁屋の中の老女の姿は細っそりと痩せて、声もさびさびと、
しかし、言葉ははっきりと聞こえます。
(詞章のプリントは老眼鏡を忘れたので見ませんでした。
途中、隣の人が出す騒音でかき乱され、一瞬言葉がわからなくなります。が、しがみついて見ていました。)
なんと美しい老女でしょう。
(細っそりとした、枯れ枯れとした美しさです)
そして、老女の美しさがなんと出ていることでしょう。
(次の日に、おばあさん→老女と訂正。後で違和感を感じて。
書くときは、無理やりそう書きたかったのですが、やはり違うと思って書き直しました)
藁屋から出てきた姿も、舞う姿も、
ちっとも力まず、枯れて軽く、自然です。
また、自由な、力強い精神を感じます。
しかし身体は衰えて、歩みは覚束ないし、すぐに草臥れてしまう姿です。
ああ、でも美しいのです。
貧弱な言葉しか持たない私が表現できない美しさですが
お能のよさ、美しさだと思います。
百歳、というのは、数字ではないのだな、という気もしました。
ここに持ち出したらおかしいかもしれませんが、
母はこの間84歳になりました。
身体がもともと強くなく、大病もしていますし、こんなに長生きできるとは思っていませんでした。
さすがに、弱ってきて、顏も皺が増えました。
毎日、つくづくと顏を眺めますので、母は嫌がるのですが、
なんだかとても綺麗です。
皺というものは醜いものではありません。
いよいよ手の込んだ、綺麗な彫刻が施されてきたね、と私が言いますので、母は怒りますが、
本当にそう思えるのです。なんだかとても綺麗です。
母は、年を取ってから、若いときより自由に、軽やかになりました。
他の今までお会いしたお年寄りにも、そういう方が沢山ありました。
辛いことが増えるのに、自由に、やさしく、軽やかになる人たち。
いろいろなことが出来なくなり、辛いことも増える老境を、
よく、このお能のように表せたものだと思いました。
昔は、もっと苛烈な環境でしたでしょうから、奇麗事では済まなかったでしょうが、
それでも。
「望月」は辻井八郎師とお嬢さんの美遊さん。
こちらもよかったです。
お能をみているうちに、頭痛も治りました。
しかし、隣の人の出す雑音は、かなりひどく(小さい音ですが)
「関寺」はなんだか外から見ていた感じです。
雑音が終わったら、舞台が迫ってきました。
ちょっと悲しかったけれど、お能の力で救われました。
外で見ていたにしても、よかったことはよかったのですから。
(次の日、少しだけ訂正しました。括弧の位置とかも)